住環境計画研究所の歩み

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第1回 創業前史(1970年代)

※この記事は住環境計画研究所の創業者であり、代表取締役会長である中上英俊に対するインタビュー記録(2016年6月22日に実施)を再構成したものです。インタビュアー(青字)は住環境計画研究所の所員です。

①大学院修士課程では工業化住宅をエネルギーで評価する

住環境計画研究所は、会長が東京大学大学院の博士課程を出られた直後、1973年に創業されていますが、どのような経緯があったのか教えてください。

大学院に進学したことが大きな転換点だったんだよね。1968年の春に横浜国大の建築を卒業して、そのまま横浜国大で修士課程に進んだんだけれど、すぐに学園紛争が始まってしまってね。学園紛争といっても分からないか。

ほとんど知りません。歴史上の出来事ですね。

当時の横浜国大の学生運動は過激な方で、この年の紛争で大学が封鎖されてしまって、先生方も授業ができない状況になったんだよね。どうしようかと思っていたところ、東大の大学院に進学した先輩が「うちに来て手伝ってくれないか」と言うので、当時は六本木にあった生産技術研究所に手伝いにいくことになった。横浜国大に所属したまま、東大で修士論文の研究をすることになったんだ。

どちらの研究室だったのでしょうか。

東大の方は、勝田高司先生の研究室だよ。そこに助手として村上さん(村上周三先生)がおられたわけ。自分はお客さんのような立場だったということもあって、委員会などに一緒に出て、議論したりもしていた。

そういう中で、修士論文をどうしようかと考えていたんだけど、当時は住宅を工業化して、工業生産で住宅を供給しようというプロジェクトが始まった時代だったんだよね。元々、アメリカでオペレーション・ブレークスルーという活動というかビジネスが始まって、それを日本は真似たわけね。

アメリカだとツーバイフォー、日本では在来(木造軸組)という典型的な工法があって、大工さんがハンドメードでつくるのが住宅だった。それに対して住宅の生産を工業化しようという発想が出てきた。今はやっていないけれど、ゼネラル・エレクトリック(GE)が開発したモデルもあった。

住宅のパーツを工場で生産しようということですね。

住宅を工業製品にするということは、製品の性能をきちっと評価しないといけない。ここでも色々な経緯があって、例えば、どの役所が所管するか。工業製品なら通商産業省(現在の経済産業省)になるけれど、住宅建築という面では建設省(現在の国土交通省)になる。結局、両省に部署ができて協力してやっていたと思うけれど、徐々に建設省が主導して、通産省がサポートするような関係になっていった。

そこで、どちらだったか、通産省だったと思うけれど、性能評価手法を検討する委員会に勝田先生が出られていた。そのお手伝いをするので、「私は住宅の性能評価をエネルギーでやりましょうか」と提案したわけ。そんなことは、他の人は思いも付かなかったようだね。エネルギーで評価するなんて。

その時に住宅とエネルギーが結びついたのですね。住環境計画研究所の原点ですね。

なぜエネルギーで評価しようとしたかというと、住宅で使われる設備が、それなりに重要性が出てきていたからなんだよね。昔はプリミティブな設備しかなかったけれど、これからは冷暖房・給湯システムが、住宅に必須の設備になってくる。そういうものを評価するのに、エネルギーでやってみたらどうだろうと思ったんだよね。

今、うかがっても突飛な発想に思えます。エネルギーで建築を評価するというのは。

苦労したんだよ。本格的に建築分野でエネルギーをやることになったんだけど、建築の先生方の発想だと、暖房、冷房、給湯だけだったんだよね。照明さえ眼中にない。家電製品や厨房なんか、当然入らない。だから「何で家電製品の話をしているんだ」と、他の大学のある先生から言われたことがある。

僕としては、消費者が住宅を買うときに評価するための指標を作ろうとしていて、消費者には電気代、ガス代、灯油代という形でしか見えないんだから、暖房、給湯という訳にはいかないと思ったんだ。建築の中では異端だったんだけど、家庭で使う全部のエネルギーで評価するということが、今に至って重要な取り組みになったと思う。

いつも言っているように、建築の世界でエネルギーを扱うときに家電製品や厨房を除くのは専門家のための指標であって、ユーザーのためではない、というのはこういうことなんだよね。いまだにそのままだね。

インタビュー時の中上英俊(代表取締役会長)

修士論文ではどのようにまとめられたのですか。

5段階のグレードを定義して、最高グレードが当時のアメリカの住宅のエネルギー消費水準で、最低グレードが日本の住宅のエネルギー消費水準という形にした。当時の日本では暖房は石油ストーブが1台あるかないかの水準で、ほとんど暖房はされてない状態だった。給湯もお風呂だけで、洗面所や台所ではお湯が出ないことも多かった。お風呂すらない住宅もまだあった。最高グレードはもちろん全館空調とセントラル給湯。エネルギー消費の水準で5~6倍の差はあったと思う。

なるほど。この研究が1970年頃のことですか。

そうだね。1970年の春に修士を出ているから、もう少し前かな。実はその委員会の報告書に僕の名前が出てしまって、大問題になった。事務局の方が「お前が書いたんだから、お前の名前だ」といって、出してしまった。それで、えらく先生から叱られてね。ドクターに入る前から少しぎくしゃくしてしまった。


②大学院博士課程では冷暖房システムの実測を通して現場の面白さを知る

そんなこともありながら、勝田先生の研究室に正式に進学されたんですね。

いや、それがそうじゃないんだ。修士では結局授業を受けていないし、このまま社会に出てもどうかと思って、ドクターに進むことにしたんだけれど、勝田先生の研究室は環境工学が専門で、自分が正式に所属していたのはプレハブ住宅や工法を専門にする研究室だった。ドクターを受験するにしても、環境工学で入る素養はないから、原広司さんの研究室を受けることにしたんだ。後に京都駅の設計などを手掛けた原さんね。ちょうど原さんが東大に戻ってこられたタイミングだったんだよね。それで原研のドクター1期生になったんだけど、研究ではやっぱり勝田研に入り浸ることになった。ここでもイレギュラーなことになっちゃった。

形式的とはいえ、原広司先生の研究室に所属していたとは、驚きました。博士課程ではどのような研究をされていたのですか。

当時研究室にはいくつかのプロジェクトがあったけれど、一つは大阪ガスが東豊中に実験住宅を建設するプロジェクト。設計は同じ生産技術研究所の池辺陽先生の研究室が担当して、環境設備を勝田研究室が担当した。それから、同じ頃に勝田先生がご自宅を建て替えることになって実験的な設備を導入して実測するというプロジェクトが立ち上がった。

大阪ガスの方はもうある程度進んでいたから、自分はこちらに入ることになった。だいたい教授の自宅の実験を担当するような勇敢な学生は居なかったよ。ヒートポンプの冷暖房システムを作ろうということになって、東京電力からの委託費も入ることになった。その時の担当が片倉さん。片倉百樹さんね。

そこで片倉さんに出会っているんですか。学生の時に。

そう。ところがこのプロジェクトはなかなか進まなかった。こちらの設計も池辺研が担当なんだけれど遅れてしまってね。勝田先生もイライラしてさ。8月から冷房の実験をやろうとしていたのに完成しない。10月頃には「君はうちの研究室に入ってから何も研究していない。どうなっているんだ」と叱られたわけ。とにかく家ができないことには実験が始められないから、毎日現場に行って、現場監督みたいなこともやったんだけど、とうとう年も暮れようかという頃になって、先生が「家を壊したのに、家ができない。正月はどこでやるんだ!」とお怒りになって、とにかく未完成のまま引っ越すことになった。暖房の実験が始められたのがやっと2月。それで3月に報告書を出すという無茶なスケジュールで。

何も成果が無さそうですが…。

そうなんだよ。それで、「これじゃ駄目だから、もう1年やりましょう」ということになって、翌年もやったんだけど、非常に面白かった。僕は設計講座みたいなところに居たから、実験ってちょっと面倒くさいと思っていたんだけれど、やっぱり現場でものを見て測るというのはすごく面白いよ。このヒートポンプシステムの実測は面白かったね。

会長の現場主義はそこから始まったんですか。

これだけでもないけれどね。研究所をつくったあとの宮崎での農村計画も大きなきっかけになったね。

実験でも苦労があったのではないですか。

ヒヤッとしたこともある。ヒートポンプは冬に霜取りをしないといけない。ヒーターでやるとすごくエネルギーを食うし電気代もかかるから、深夜電力で貯めた温水で溶かそうということになった。これも特注の700リッターくらいの温水器。そこに熱電対を組み込んで温度を測ったりする。

先生には内緒だったんだけれど、沸き上げ温度を80℃に設定していたところ、熱容量を上げたくて90℃にしてみた。そうしたら、先生から「ボコボコと音がしていたぞ」と言われて。「まずい。沸騰している…」と、慌てて温度を下げに行って、確か83℃くらいにしたかな。

先生のご自宅は近かったのですか。

そう。大学から歩いていけるところだったんだけど、毎日のように通った。熱電対はゼロ点補償をしないといけないから、氷屋で氷を買って持って行き、常に0℃を保っているわけ。だから絶対に毎日やらないといけない。他の方に手伝ってもらったけれども、ほとんど僕がやっていた。だから、引っ越しでモノの所在がわからなくなった先生や奥様から「あれはどこに行った?」なんて話まで僕のところにきた。犬と留守番をしたこともある。

会長らしいエピソードですね。創業前のこの時期にもう村上先生や片倉さんなどお世話になった皆様のお名前が出てきましたが、吉野博先生もこの頃ですか。

吉野君は横浜国大の後輩で僕の修論の手伝いをしてくれていた。学部卒業後は設計事務所に就職が決まっていたんだけども、「もう少し勉強しろ」といって、こちら(東大)に引っ張った。お母さんを説得するのに実家まで一緒に行ったりした。人の人生は分からないね。建築学会の会長にまでなったんだから。


③大学院時代から受託研究に取り組む

そうだっだのですね。ところで、会社に残っている一番古い経歴書は1986年版なのですが、これによると1970年に「NOAM住宅都市開発室」として発足したのが母体となったとあります。ドクターの1年目の頃だと思うのですが、このあたりの経緯はどうなっているのでしょうか。

NOAMはメンバーの頭文字を取ったものだね。中上、楢崎、大澤、芦川、奥田。NとOは2人居たんだ。Mは村尾平格さんといって、僕の父の学校時代の後輩で戦友でもあったらしい。そういうご縁で。後に会社を株式会社にしたとき(注:1976年1月)に、取締役になっていただいた。

村尾先生のことは憶えています。暮れの忘年パーティにいらしていましたね。

村尾さんは東京で設計事務所をやっておられて、僕はそこにアルバイトに行って図面を引いていたんだ。これも話せば長いんだけれど、当時、日立製作所が工業化住宅ビジネスへの参入を検討していて、そもそも住宅とはなんぞや?といった相談が村尾さんのところにあった。その報告書を僕ら(NOAM)が書いたわけですよ。芦川や奥田たちとね。

このプロジェクトは月に30万円くらいの委託費があった。当時としては凄い金額で、これをみんなで分けてね。面倒なお金の管理は僕が引き受けたんだけれど、それがあったから後にマンションの銀行ローンがおりた。

NOAMのメンバーの皆さんのことを少し教えてください。

芦川(智さん)は横浜国大の同級生で、東大の原研に修士から入り直していた。僕がドクターの席を取ってしまって、そうしたんだけれども。昭和女子大で長年教鞭をとっていた。奥田(宗幸さん)も横浜国大の同級生で、彼は修士からちゃんと東大に入って、博士も出て、東京理科大の教授になった。奥田とは卒論を一緒にやったんだ。

楢崎(俊郎さん)、大澤(良二さん)とはもっと古くて、予備校仲間。楢崎は東大の都市工学科に、大澤は東工大に行った。色々あって、大澤は創業間もないころに、うちの副所長になった。後でまた話すと思うけれど、創業当時は農村計画の仕事をやっていて、大澤はアーキテクトだから、彼にやってもらったわけだ。そのうちに村越君(村越千春さん。のちに取締役副所長、最高顧問研究員)が入ってきて、大澤の下で仕事を始めた。村越君は原さんのところでアルバイトをしたりしていて、設計志望だったからね。最初はエネルギーなんて、まるで興味が無かった。

博士課程の頃に既に仕事をされていたような様子ですが、大学では論文を書こうとされていたのですか。

いや、エネルギーでは論文にならないっていうからね。だからドクターを出てどうしようかと。心配した勝田先生が色々なところを紹介して下さったんだけれど、全部断ったわけね。東大教授の推薦で行って、先生に恥をかかせるわけにはいかないから、「自分でやります」といって、創業することにしたんだ。ベースで日立の仕事もあったし、建築だと自分で事務所をやる人も多いし、一級建築士も取っていたしね。

話を戻しますが、農村計画に取り組んだきっかけは何だったのでしょうか。先ほどの経歴書には、1973年に「住環境計画研究所」に改名し、宮崎県での農村計画参画のご縁から、宮崎市に本社を置く日南建築設計株式会社の付置研究所として本格的な業務活動に入りました、と記載されています。

日南建築設計は横浜国大の熊田さんという先輩がやっていた会社でね。その先輩の同級生が、ミトモ建設という会社を恵比寿でやっていて、昔からすごく僕のことをかわいがってくれていたんだよ。それで、「お前みたいに大言壮語するやつの相手ができるのは熊田しかいない」ということで紹介されたんだ。熊田さんは宮崎で主に旭化成の仕事をしていたけれど、手広くやっていて、九州では大きな建築士事務所だった。

東京方面にも旭化成の工場がいくつかあったから、熊田さんから「東京に事務所を出すから、いい所を探してくれ」と言われて、目黒台マンションを見つけてきてね。日南建築設計がマンションを借り上げて、僕がそこに借り住まいしよう、と思っていたわけ。ところが1973年のことだからね。秋に第一次オイルショックが来て、熊田さんも東京に事務所を構える余裕はないということになって。

それで会長が目黒台マンションを買うことになったんですか。

そう。最初は借りるという話だったんだけれど、最終的に買わざるを得なくなった。僕も代々木の自宅を引き払っていたし、結婚して子供もいたしね。そこで、さっきの名目の月収30万円が効いて、ローンがおりた。先輩たちも保証人になってくれてね。

それでも付置研究所という東京事務所的な位置づけでスタートしたんですね。

それは「最初から独立しても社会保険なんかで大変だろうから、うち(日南建築設計)の傘下でやったら?」という熊田さんのお誘いでね。でも、世の中がだんだん厳しくなってきて、熊田さんのところも大変そうだったから、後で独立することにしたんだ。

第2回に続く

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