洞爺湖サミットはひとまず成功裏に幕を閉じた。案の定、前と後ではマスコミの取り上げ方にまさに月とスッポンの差があるようだ。温暖化防止への挑戦はこれからますます厳しさを増すことになる。多くの人々への警鐘の発信と、啓発がこのサミットで加速されたことを期待したいものだ。
そこで気に掛かることがあるので、皆さんのお考えをお聞きしたいと思いながらこの稿をお引き受けした次第である。というのは、地球温暖化防止の新たなキャッチフレーズとして登場してきた「低炭素社会」という言葉だ。どうやらその本意は、温暖化をもたらすエネルギー消費、中でも化石燃料による二酸化炭素の排出が問題なので、その削減で「低炭素社会」を作ろう、とういうことらしい。
なるほど、このネーミングは新鮮で、既に多くの人々に受け入れられつつあるらしい。だが、私には少々引っかかるところがある。ポスト京都の大きな狙いのひとつが、発展途上国を含む全員参加の温暖化防止にあったことはご承知の通りだろう。そこで「待てよ?」ということになる。先進国はともかく、途上国にとって「低炭素社会」なる標語がどのように受け取られるかだ。
最近私が省エネルギー政策づくりのお手伝いで訪れているベトナムでは、電力の消費量はわが国の10数分の1である。家庭での燃料は農村地域では未だにたきぎやわらなどの農業廃棄物が多い。電気はともかく、後者の固体燃料は、まさにバイオマスそのものだ(使い方に問題があるのはご高承の通りだがひとまずおいておく)。もう十分に低炭素社会なのだ。そこで、ベトナムの大学の先生に「低炭素社会という言葉をどう思いますか?」と問うてみた。予想通り「わが国にはその言葉は通じないでしょうね。」とのことだった。
「低炭素社会」という言葉はどうやらお金持ちの先進国でのキャッチフレーズとしてはフレッシュで、意味するところも理解されつつあるようだ。しかし、途上国の人々にはお金持ち社会の問題として、かえって温暖化防止へのとらえ方を誤らせることになりはしないかと懸念される。21世紀は途上国の急激な発展と、それに伴うエネルギー需要の爆発的増大、ひいては温暖化ガスの急増という避けて通れない問題が横たわっている。
私の解釈が杞憂であることを祈っている。
※「エネルギーフォーラム」2008年10月号より転載 http://www.energy-forum.co.jp/